今論総括

この理論は観測とは何か?このテーマは量子論で重要な論旨になっている。このテーマと絶対量と考える一瞬の接点をどうとらえるかが、今論の重要な核心だ。一瞬は生きている私達の本当に存在しているか?そのリアリティを感じさせる究極の概念だ。一瞬はそれ以下の分割はできない

生きていることの最小時間である。もちろん時間の客観的最小値は別だ、リアリティのある範囲の話だ。一瞬は半分は最小値にならないし、なったらもうそれは一瞬ではない。いままさに存在していると確信もてる実在である。この概念を否定したらすべて幻想になってしまう。客観的 も科学的といわれるが、幻想である。となると生きてる存在により、一瞬の時間違ってくるだろう。そしてその存在が生物により大小があるのではないか?このアイディアがこの論理が今論の発想の要因になったアイディアである。このことを時間量とよぶ。一瞬も連続ではありえない、。不連続であろう、であるから飛び飛びの値になるだろう。この一瞬

の最小値は観測のどうしても残る誤差と考える 。これは物理学の原理である(理論ではない)不確定性原理と共通因子はないだろうか?この原理も観測の限界を示すいまだやぶられない根本原理である。空間、距離、質量 いろいろ考えたが時間はこの一瞬と関係ないだろうか?この原理は誤差の関係である。もし時間量が成立すれば絶対量と考えるじことができるからこの時間量は不確定性原理に共通項Tをもつことからこの一瞬を科学的で導入できないか?と考えたのである。不確定性原理は観測誤差原理である。であるならその存在物は誤差理論から成り立つことに注意しなくてはならない、ということは観測は不確定場で成り立つという実在はないことが結論できる。あとで気がつくが今の一瞬は意識である。これはスリット実験で気がついたことである。これも有名な物理学者なども意識の事を話しているらしい。というわけで意識を説明しなくてはならない。大変だ。もつれた量子などですこしでも意識を導入した内容が今論の結論だ。まだわからないことがあるし、完全には意識が説明できていない。しかしあくまでこの理論でわかるところまで完成させておこうと思います

。、

意識と物理の接点

科学は客観的でなくてはいけない しかし究極までゆくとどうしても観測問題がでてくる 今だに論争中である 波動の収束 シュレジンガーの猫などの論議がそうである この観測問題は不確定性原理に関わることでありこの不確定性原理が客観的誤差ではなく観測側も巻き込んだ誤差というか不確定の本質的テーマであります

つまり客観的といわれた科学に観測側も導入した原理になっているところが重要なのです 究極においてはこの二つはいっしょにかんがえなくてはいけないところがポイントなのです であるならこの原理に観測側の概念がどこかに反映されなくてはいけない

不確定性理論がすべてなら

 不確定性原理は単なる粒子の観測の誤差ではなく本質的な空間と時間と質量の密接な関係を表している これは観測側も含む場の性質ともいえる本質的なものである  この場を観測すればこの場との干渉のような  結果として不確定性原理が成り立つと考えられる いかえれば観測という人の意識場を場に組み入た結果という考え方ができる

不確定性原理が観測側も入り 正しければそれがすべてでなくてはいけない

h/4π≦ΔpΔx       

h/4π≦ΔEΔt      (2)

(hはプランク定数)

の中にすべてがなくてはいけない それ以外の客観的存在があってはならないのであり今の物理学ではこの理論をあくまで客観的に説明しょうとして運動量と位置 エネルギーと時間の関係で解釈している しかし観測により対象物の影響を与えるなら観測との関わりから本当はその中に観測系も入らなくてはいけないわけでどこにこの観測系を組み入れるかということであります

つまり(3)がすべてならそこから観測量ともいうべき概念を生み出しそれに従い客観量ともいうべき拡がり量であるLと質量Mが存在してくるという

発想をすればいいわけでそれは時間に関わる何かであることがわかってくる そこに何か存在するとは存在を認識するその間に時間が流れることであり存在するとはその場を占有するということでありそれを実感するとは質量の存在でありつまりLとMが客観的に観測できるということである では時間は客観ではないのか? 時間は客観ではないのである 距離は前に進んだり戻ったりできる 質量も存在物としてその重さを減らしたり増やしたり自由にできる しかし時間は過去に戻れない 未来にも進めない あくまでも観測系と同じ流れでありそこから一歩もはみ出せない 時間は観測場そのものであることがわかる とはいえここは大変な考察すべきところであって結論は観測とは時間そのものであるという結論になった 

丸い玉を外から見てながめるのではなく私たちはその玉の内側から玉そのものを観測しているというのがイメージとしては正しいのであり玉のそとには何もなく空間はなく玉以外はその外に何もない その玉を客観視するのに時間の存在が必要であるし少し話が飛ぶがつまり意識の存在につながるわけである この時間という概念の中に生命の進化と意識の成長そしてこの宇宙の存在まですべてが説明されなければならない なぜなら不確定性理論がこの世界の根底をなすものならこの次元式の中の時間 空間 質量以外の存在次元量はないからである ではどう説明するのか 今論では時間と意識との関係からプランク時間を不確定最小時間量と考えこの時間を最少意識量と置き換える つまり一瞬の不確定時間量の最小時間単位である この最小時間単位を整数倍していくことが一瞬一瞬の積み重なりであり大きくスケールアップしてゆくと人間の感じる一瞬になる

この世界は、すべてレベルごとの観測で成り立っています 主に上位レベルから下位レベルへの観測ですが観測といっても後述しますが、望遠鏡や顕微鏡で見るということだけではありません。スリット実験で言えば、この粒子を観測するのは、スリットです。スリットは粒子の内容を予測してそれに対応して期待される。結果を出す上位レベルの場の装置です。大きく言えば、その実験装置そのものでそれを観測している人間の場であります。実験レベルでなくても、この世界の感じるものこれ自体が、観測にあたります。この感じることは、すべての生命に在るもので 感じるとは何かに作用して出てきた結果です。また、観測等は、その存在物を認めることであり、そこに時間が流れます。つまり時間の存在です。当たり前の様なことをお話していますが、とても重要なことです。この時間量方向への不確定場とは生命で、いえば、感覚のことなのです。人間で言えば、感覚を統合する意識もそうです。前述したように不確定場とは空間方向へは、場の不確定として、時間方向へは、一瞬の時間量の不確定のことです。意識とはリベットの実験によれば」人間の顕在意識レベルでは、0.5秒かかって作られる。詳しいことは、リベートの実験を読んでもらうとして、つまり、この0.5秒かかって意識は、作り出される。ということです。手をけがすると、その痛みは0.5秒かかって初めて。痛いと感じるらしいのです。しかし、私たちは、この時間幅を感じません。けがした瞬間痛いと同時に、感じると意識します。これは、この0.5秒間に、この痛いという感覚を作り出しこの0.5秒不確定にして時間幅ををなくししまう そういうことを脳の中で、操作してけがした瞬間に一致させてしまう こうして我々の顕在意識は、時間幅を持つのです。反論が来そうですね。たとえそうでも客観的時間は、正確に測れるではないか。それはそうです。大事なことは、それを感じられるかどうかです。この感じることが、今論では、絶対量なのですつまりリアリティです。人間の一つ下のレベルでは、つまり、肉体レベルでは、もう少し一瞬が小さくなるでしょう。0.1秒とか0.2秒とか反射神経とかが、そうでしょう。これは、意識しない。体の動くレベルです。歩いたり、反射的によけたり、意識しなくても、体を守ったり、動かしたりするレベルです。その下には、体のバランスをとる。レベルがあります。体温調節とか血圧とか体の微妙な調節ですこれらは、もっと時間量が、小さくなくては、この微妙な体の調節は、効かないでしょう、気分が悪いと体にも影響を与え、胃が、痛くなったり、体が熱くなったり、寒くなったり 臓器レベル細胞レベルなどそれぞれのレベルで意識レベルよりはるかに繊細な時間量をもち これらのレベルが細胞レベルまで”今”の一瞬を通して、統合され人間の生命を作り出しています。これは細胞内のDNA まで環境適合のため影響あたえているはずで つまり、量子的関係までゆきます。おそらく感覚は細胞レベルまでで、細胞内レベルでは、量子的な関係に質的転移をおこしているでしょう。これは、後ほどお話します。

時間量とは不確定場のこと。

この時間量とはこれに当たるレベルでの一瞬と感じる時間の流れのことであり、この時間量に絶対的基準をおき時間も空間もこの世の中に存在するすべての事象は、この時間量の相対的現象の現れにすぎないということなのです。この一瞬の時間量は、不確定場として、進化して生命を生み出している。なぜ陽子は同じ電荷同士なのに集まって原子核を作るのか ?同様に電子もその周りを回るのか?なぜ原子は集まって分子を作るのか分子はどんどんあつまって物体を作るのか?あるいは生命のもとのたんぱく質などという複雑なものを作るのか ?そして生命が発生するのはたんなる偶然なのか こうした本質は科学では説明できません それらの前提で理論を構築するのです しかしこの時間量がその意味を解きます

そのためにはまず不確定場とは? が必要でそれは、不確定性原理から生み出された理論でまずは、不確定性原理から説明しなくてはならない。

まず  時間量とは一瞬一瞬の時間スケールの幅のことであり この幅での時間の前後はない このスケールが量子の世界から宇宙まで階層的に存在しこれらのスケール が重ね合わせの世界になっているということであります お話ししたように一瞬一瞬こそが絶対量でありそれゆえそれぞれのレベルで不確定であり空間 時間 質量などはこの時間量のスケールレベルの反映にすぎないということなのです そしてこの時間量が 量子 から生命そして進化 宇宙の成り立ちまで創造しているのです この一瞬の時間量とはつまるところ私たちのレベルでは意識のことなのです この意識はこの配下に たくさんの潜在意識場がありそのレベルでは少しずつ一瞬の時間量が小さくなって行きつまりそのレベルでの絶対時間の流れはかわらないが上位レベルから観測すればものすごい速さで事象が進んでゆくように見れ 逆にそのレベルから上位レベルを観測すればゆっくり動いているように見える これは本質的に量子レベルまでゆきます  なんどもいうようにこの時間量は客観的な時間の流れではなく一瞬の幅のことでありこの  一瞬はどのレベルでも同じ感覚であります それゆえ私たちが一瞬と感じる間に下にさがるほど主感時間は同じでも客観時間ではその何倍 何百倍の一瞬の積み重ねになり下のレベルでははるかな時間となるわけです 私たちがほんの2~3秒と感じていても細胞レベルでは1時間あるいは1日正確にはいえないですがそういった世界があるはずです このあたりは別項でお話しています

  今という一瞬が絶対基準となり すべての出来事は今の存在のために成り立っている 宇宙は今のためにあるということです 意識の流れと時間の流れがペクトル的に同じだということは古今東西同じような思想はありますが時間そのものが意識であると考えるのです 現代科学では時間は変化せず一定の流れの前提で理論は成り立っている しかしこの時間も相対性理論からわかるように観測場の位置により今という時間が違ってくる 観測場によって”今”が違うということである つまり観測場の時間絶対性であり その瞬間時間を”今”と称する 今を感ずるのは意識であり意識の絶対性ということである ここで大事なのは私のいう意識が皆さんの考える意識とは違うかもしれない 人間レベルの意識(顕在意識)は自意識とかいうもので高度な意識である  意識は原始的意識というものでこれは別項で説明してある これから意識とはこの原始的意識のことであるとご理解いただきたい

我々は過去や未来にすむわけではなく現在つまり”今”から抜け出せない”今”そのものである 私はこの今という時間が 空間より実在性の高いバロメーターではないか考えている 今とは何か?それは一瞬一瞬の時間量のことで時間の変化とは一瞬一瞬の意識のことで意識とは過去未来ではなく今そのもの その反映がこの世界であると考えている つまりこの一瞬一瞬の意識のつながりが時間を感じさせ始めと終わりをづくりつまり因果律を作りこの世界を作っていると考える  意識こそがすべての力の源で この世界は四つの力プラスアルファのdの均衡で成り立っているこの力は意識つまり時間の変化であり時間の変化 = 力の世界でこの力は今を成り立たせるために必要なパワーでありそれゆえ今がある お分かりいただきますか つまり意識とは今の連続のことで次々変わっていく時間の変化が力としてあらわれ今を成り立たせているということです

不確定性理論がすべてなら

 不確定性原理は単なる粒子の観測の誤差ではなく本質的な空間と時間と質量の密接な関係を表している これは観測側も間に時間が流れることであり存在するとはその場を占有するということでありそれを実感するとは質量の存在でありつまりLとMが客観的に観測できるということである では時間は客観ではないのか? 時間は客観ではないのである 距離は前に進んだり戻ったりできる 質量も存在物としてその重さを減らしたり増やしたり自由にできる しかし時間は過去に戻れない 未来にも進めない あくまでも観測系と同じ流れでありそこから一歩もはみ出せない 時間は観測場そのものであることがわかる とはいえここは大変な考察すべきところであって結論は観測とは時間そのものであるという結論になった 

丸い玉を外から見てながめるのではなく私たちはその玉の内側から玉そのものを観測しているというのがイメージとしては正しいのであり玉のそとには何もなく空間はなく玉以外はその外に何もない その玉を客観視するのに時間の存在が必要であるし少し話が飛ぶがつまり意識の存在につながるわけである この時間という概念の中に生命の進化と意識の成長そしてこの宇宙の存在まですべてが説明されなければならない なぜなら不確定性理論がこの世界の根底をなすものならこの次元式の中の時間 空間 質量以外の存在次元量はないからである ではどう説明するのか 今論では時間と意識との関係からプランク時間を不確定最小時間量と考えこの時間を最少意識量と置き換える つまり一瞬の不確定時間量の最小時間単位である この最小時間単位を整数倍していくことが一瞬一瞬の積み重なりであり大きくスケールアップしてゆくと人間の感じる一瞬になる

感覚は想像できない。

この想像できないということが、]人間の発想の限界である。 それ以外の感覚がわからないからこの世界の仕組みを科学的 実験的という結果に求めることになる。しかし、これも意識レベルへその感覚が上がってきたときのみである。顕在意識に上がってこなかったら、感覚は何もないのであろうか。痛いと感じなければ、細胞レベルでも 何も感じないであろうか。何も感じてなくても、体に細菌が、進入しても、それを免疫抗体が、その細菌と戦い体を守っているわけであり、常に体温は、同じレベルを調節しているわけであり、顕在レベルにこれらの感覚が上がってこなくても、細胞レベルでは、何かを感じ取って年中無休で働いているわけである。少し上の肉体レベルでも、内臓は無意識に動き 手足も命令しなくても、勝手に歩いたり、触ったり 各レベルでこの肉体を守っているわけであります。これらの動きは、何の命令で動いているのでしょう。システム的にそうなっているのだと簡単に考えるわけにはいかないでしょう。人間レベルでは、情報により、動くということは、考えられますが、このレベルでも現実は、何らかの衝動があって行動を起こすわけであって情報だけで、体が動くということは、ありません。

いわんや細胞レベルで知性があるわけではなく、情報で動き出すはずはなく、何らかの衝動があるはずです。犬や鳥や下等生物では、感覚で行動しているのはわかりますが魚の群れを見ていますと、全体として、一瞬で向きを変える 決して先頭の魚が、向きを変え、徐々にその情報が、伝わって変化していくわけでは、ありません。

分子生物学を少しかじるとこのレベルでは、とても複雑すぎて、すべてシステム的に成り立っているなどととても思いません。各レベルで何らかの感覚が生じていると。考えるほうが、遥かにわかりやすいと 思われます。しかし、その感覚が想像できないからシステム的に解明しようと 努力しているわけですが、その本質は、感覚にある故なかなか難しいというところでしょう。現代科学では、何らかの偶然で細胞ができ、そしてそれが、集まって肉体ができ、神経ができ、感覚も生じる。というシステムと偶然が、重なって生命は生まれたと考えています。まあ何と説得力のないお話でしょうか。しかし、感覚そのものが科学的ではないという理由により、無視されている。今論では、この感覚の初期の段階が電磁気や強い相互作用 弱い相互作用 重力等の力として現れると考えます。とんでもない考えだ ついていけないと思いでしょうが ちょっと待ってください テーマはこうです この力がどのように感覚 意識まで進化してきたか?今論では今に収束してすべてが成立していると考えます 初期レベルでは力の現象として現れそれが共有結合から有機分子が作られそれが細胞をつくりその細胞が分裂をして

細胞体を作り生命体が創造される その流れの根底の感覚の進化があると考える その感覚は初期レベルからなくては逆に今論が成立しない というわけで

身近な自分の肉体から感覚を分析してみよう

細胞レベルと肉体レベルでは微妙に感覚が違うだろう

細胞レベル 接触感 弱いチックとした痛み 

細胞集合体レベル(臓器 肌など) 痛い こそばゆい かゆい 暖かい 熱いなど

肉体レベル  激痛 暑い 寒い 快感

生命統合レベル (顕在レベル) 苦痛  嬉しい  気持ちいい 

他者との関係まで含めて 感動 悲しい 充実 憎しみ しっと 

このあたりはいろいろご意見が分かれるところですが こうしてわけると 細胞から全体まで感覚といえどこのように感覚も変化してゆくことがお解かりいただけるだろう.ところで感覚とはなんだろう?今論では時間量である。無意識の時間である。この時間の経過が感覚を決めると思います。体では感じられない無数の皮膚感覚,五感、自律神経など無意識の感覚ともいえるそういった存在が肉体を守っています。人間レベルでは顕在さいぼう意識~肉体感覚~自律神経~細胞レベル~細胞内レベル~核内レベル(遺伝子)~量子レベルなどに時間量を分画してその無意識の時間量を考える。この無意識の時間は当事者に取ってない

Tn(意識)>Tk(体の感覚)>Ts(細胞レベル)

のである。人間の感覚では0.5秒たたないと感覚は発生しない。しかしこの微妙な時間は消えてしまうのです。0;5秒未来へ意識が飛ぶのです。というか、時間の経過を感じないのです。こうして人間の意識の構造はなりたっています。

先っぽの部分はその器官が観測する機能  それ以降の部分はそれ以下の記憶が残る無意識部分、このように重ね合わせの、観測によって時間量が進化する。不確定性原理―時間量―感覚―意識

階層構造 ヒエラルキー

 

固体

器官 (心臓 肝臓 根 茎 花 など)

組織  (結合組織 上皮組織 神経組織 )

細胞  (血液 神経 筋肉 9

オルガネラ (ミトコンドリア 小胸体 ゴルジ体 )

分子  (たんぱく質 核酸 ATT アミノ酸)

一つの細胞 - 1秒で数万個の蛋白を作る

一つの細胞      - 80億のたんぱく必要

アミノ酸 20種類で組み合わせ たんぱく質作る

アミノ酸 O N C S H の5種類

生細胞は量子レベルの効果で働いている 陽子や電子を輸送するミトコンドリアは直径 1ミクロン(1センチの 1/10000)以下であり細胞膜の幅は 40ナノメートル(1センチの百万分の 4)しかない DNAの二重らせんの断面の大きさは 2ナノメートルであり大きなタンパク質のサブユニットにさえ20ナノメートル程度である 生命ははるかに微細な

電子のやりとりのレベルであり ある時期から突然生命が生まれたのではなく 本質的に量子のレベルまでかかわってくるということだ つまり生命とはこの宇宙の成り立ちから関わることであり たんぱく質ができてそれから生命が発生し意識の原始レベル

さて問題は一体どこまでレベル層が落とせるのだろう私は生命がたんぱく質がつくりだされそれから生命が生まれた発生したとは考えていません絶対性のところでお話ししたようにこの時間の感覚こそが一番基本的な基準になると考えていますからこれは量子が生まれた時同時に生まれたと考えなくてはなりません そこに何かがあるということは何かがあるとそれを意識する自分がいます この裏表のような関係がなくては量子の存在は認識できませんしたがってこの裏表で一つです

   存在物(RC)⇔存在すると認識(C)

、存在物は場を作り存在すると認識は時間を作り出します これで一つです もちろん認識といっても、原始レベル認識ですからこれは粒子が創造された時その裏表の関係にある”粒子を認識する”は暗在的意識ともいう原子レベルの意識ですここはとても大切なところでありますが一番難しいところかもしれません

たのではなく もっとはるかに根源的な存在なのです

生命とは不確定性場の進化へ これは、場の拡がりの重ねあわせではなく、時間量の重ねあわせです。時間の重ねあわせではありません。あとから出てきますが、時間とは観測により、現れるもので、上位レベルから下位レベルを観測する時、現れるものです。在るのは、今を創造する時間量の重ねあわせです。空間方向からは、エネルギーや運動量等物流量が、出てきます。時間量からは、質量が生み出されます。 この世界は、すべてレベルごとの観測で成り立っています 主に上位レベルから下位レベルへの観測ですが観測といっても後述しますが、望遠鏡や顕微鏡で見るということだけではありません。スリット実験で言えば、この粒子を観測するのは、スリットです。スリットは粒子の内容を予測してそれに対応して期待される。結果を出す上位レベルの場の装置です。大きく言えば、その実験装置そのものでそれを観測している人間の場であります。実験レベルでなくても、この世界の感じるものこれ自体が、観測にあたります。この感じることは、すべての生命に在るもので 感じるとは何かに作用して出てきた結果です。また、観測等は、その存在物を認めることであり、そこに時間が流れます。つまり時間の存在です。当たり前の様なことをお話していますが、とても重要なことです。この時間量方向への不確定場とは生命で、いえば、感覚のことなのです。人間で言えば、感覚を統合する意識もそうです。前述したように不確定場とは空間方向へは、場の不確定として、時間方向へは、一瞬の時間量の不確定のことです。意識とはリベットの実験によれば」人間の顕在意識レベルでは、0.5秒かかって作られる。詳しいことは、リベートの実験を読んでもらうとして、つまり、この0.5秒かかって意識は、作り出される。ということです。手をけがすると、その痛みは0.5秒かかって初めて。痛いと感じるらしいのです。しかし、私たちは、この時間幅を感じません。けがした瞬間痛いと同時に、感じると意識します。これは、この0.5秒間に、この痛いという感覚を作り出しこの0.5秒不確定にして時間幅ををなくししまう そういうことを脳の中で、操作してけがした瞬間に一致させてしまう こうして我々の顕在意識は、時間幅を持つのです。反論が来そうですね。たとえそうでも客観的時間は、正確に測れるではないか。それはそうです。大事なことは、それを感じられるかどうかです。この感じることが、今論では、絶対量なのです. つまりリアリティです(後程時間量は意識の拡がりであることがわかる。)人間の一つ下のレベルでは、つまり、肉体レベルでは、もう少し一瞬が小さくなるでしょう。0.1秒とか0.2秒拡がりとか反射神経とかが、そうでしょう。これは、意識しない。体の動くレベルです。歩いたり、反射的によけたり、意識しなくても、体を守ったり、動かしたりするレベルです。その下には、体のバランスをとる。レベルがあります。体温調節とか血圧とか体の微妙な調節ですこれらは、もっと時間量が、小さくなくては、この微妙な体の調節は、効かないでしょう、気分が悪いと体にも影響を与え、胃が、痛くなったり、体が熱くなったり、寒くなったり 臓器レベル細胞レベルなどそれぞれのレベルで意識レベルよりはるかに繊細な時間量をもち これらのレベルが細胞レベルまで”今”の一瞬を通して、統合され人間の生命を作り出しています。これは細胞内のDNA まで環境適合のため影響あたえているはずで つまり、量子的関係までゆきます。おそらく感覚は細胞レベルまでで、細胞内レベルでは、量子的な関係に質的転移をおこしているでしょう。これは、後ほどお話します。 時間量とは不確定場のこと。 この時間量とはこれに当たるレベルでの一瞬と感じる時間の流れのことであり、この時間量に絶対的基準をおき時間も空間もこの世の中に存在するすべての事象は、この時間量の相対的現象の現れにすぎないということなのです。この一瞬の時間量は、不確定場として、進化して生命を生み出している。なぜ陽子は同じ電荷同士なのに集まって原子核を作るのか ?同様に電子もその周りを回るのか?なぜ原子は集まって分子を作るのか分子はどんどんあつまって物体を作るのか?あるいは生命のもとのたんぱく質などという複雑なものを作るのか ?そして生命が発生するのはたんなる偶然なのか こうした本質は科学では説明できません それらの前提で理論を構築するのです しかしこの時間量がその意味を解きます.  そのためにはまず不確定場とは? が必要でそれは、不確定性原理から生み出された理論でまずは、不確定性原理から説明しなくてはならない。 まず  時間量とは一瞬一瞬の時間スケールの幅のことであり この幅での時間の前後はない このスケールが量子の世界から宇宙まで階層的に存在しこれらのスケール が重ね合わせの世界になっているということであります お話ししたように一瞬一瞬こそが絶対量であり,それゆえそれぞれのレベルで不確定であり空間 時間 質量などはこの時間量のスケールレベルの反映にすぎない ,ということなのです そしてこの時間量が 量子 から生命そして進化 宇宙の成り立ちまで創造しているのです. この一瞬の時間量とはつまるところ私たちのレベルでは意識のことなのです この意識はこの配下に たくさんの潜在意識場がありそのレベルでは少しずつ一瞬の時間量が小さくなって行きつまり,そのレベルでの絶対時間の流れはかわらないが上位レベルから観測すればものすごい速さで事象が進んでゆくように見れ, 逆にそのレベルから上位レベルを観測すればゆっくり動いているように見える これは本質的に量子レベルまでゆきます  なんどもいうようにこの時間量は客観的な時間の流れではなく一瞬の幅のことでありこの  一瞬はどのレベルでも同じ感覚であります それゆえ私たちが一瞬と感じる間に下にさがるほど主感時間は同じでも客観時間ではその何倍 何百倍の一瞬の積み重ねになり下のレベルでははるかな時間となるわけです 私たちがほんの2~3秒と感じていても細胞レベルでは1時間あるいは1日正確にはいえないですがそういった世界があるはずです このあたりは別項でお話しています   今という一瞬が絶対基準となり すべての出来事は今の存在のために成り立っている 宇宙は今のためにあるということです 意識の流れと時間の流れがペクトル的に同じだということは古今東西同じような思想はありますが時間そのものが意識であると考えるのです 現代科学では時間は変化せず一定の流れの前提で理論は成り立っている しかしこの時間も相対性理論からわかるように観測場の位置により今という時間が違ってくる 観測場によって”今”が違うということである つまり観測場の時間絶対性であり その瞬間時間を”今”と称する 今を感ずるのは意識であり意識の絶対性ということである ここで大事なのは私のいう意識が皆さんの考える意識とは違うかもしれない 人間レベルの意識(顕在意識)は自意識とかいうもので高度な意識である  意識は原始的意識というものでこれは別項で説明してある これから意識とはこの原始的意識のことであるとご理解いただきたい 我々は過去や未来にすむわけではなく現在つまり”今”から抜け出せない”今”そのものである 私はこの今という時間が 空間より実在性の高いバロメーターではないか考えている 今とは何か?それは一瞬一瞬の時間量のことで時間の変化とは一瞬一瞬の意識のことで意識とは過去未来ではなく今そのもの その反映がこの世界であると考えている つまりこの一瞬一瞬の意識のつながりが時間を感じさせ始めと終わりをづくりつまり因果律を作りこの世界を作っていると考える  意識こそがすべての力の源で この世界は四つの力プラスアルファの力の均衡で成り立っているこの力は意識つまり時間の変化であり時間の変化 = 力の世界でこの力は今を成り立たせるために必要なパワーでありそれゆえ今がある お分かりいただきますか つまり意識とは今の連続のことで次々変わっていく時間の変化が力としてあらわれ今を成り立たせているということです 意識と物理の接点 科学は客観的でなくてはいけない しかし究極までゆくとどうしても観測問題がでてくる 今だに論争中である 波動の収束 シュレジンガーの猫などの論議がそうである この観測問題は不確定性原理に関わることでありこの不確定性原理が客観的誤差ではなく観測側も巻き込んだ誤差というか不確定の本質的テーマであります つまり客観的といわれた科学に観測側も導入した原理になっているところが重要なのです 究極においてはこの二つはいっしょにかんがえなくてはいけないところがポイントなのです であるならこの原理に観測側の概念がどこかに反映されなくてはいけない 不確定性理論がすべてなら  不確定性原理は単なる粒子の観測の誤差ではなく本質的な空間と時間と質量の密接な関係を表している これは観測側も含む場の性質ともいえる本質的なものである  この場を観測すればこの場との干渉のような  結果として不確定性原理が成り立つと考えられる いかえれば観測という人の意識場を場に組み入た結果という考え方ができる 不確定性原理が観測側も入り 正しければそれがすべてでなくてはいけない

  ΔpΔx≧h/2π    ここでΔXは位置の不確定性、ΔPは運動量     (1) h/2≦ΔEΔt      (2) h/2π=mL^2/T (次元式) (3)       (hはプランク定数) の中にすべてがなくてはいけない それ以外の客観的存在があってはならないのであり今の物理学ではこの理論をあくまで客観的に説明しょうとして運動量と位置 エネルギーと時間の関係で解釈している しかし観測により対象物の影響を与えるなら観測との関わりから本当はその中に観測系も入らなくてはいけないわけでどこにこの観測系を組み入れるかということであります つまり(3)がすべてならそこから観測量ともいうべき概念を生み出しそれに従い客観量ともいうべき拡がり量であるLと質量Mが存在してくるという 発想をすればいいわけでそれは時間に関わる何かであることがわかってくる そこに何か存在するとは存在を認識するその間に時間が流れることであり存在するとはその場を占有するということでありそれを実感するとは質量の存在でありつまりLとMが客観的に観測できるということである では時間は客観ではないのか? 時間は客観ではないのである 距離は前に進んだり戻ったりできる 質量も存在物としてその重さを減らしたり増やしたり自由にできる しかし時間は過去に戻れない 未来にも進めない あくまでも観測系と同じ流れでありそこから一歩もはみ出せない 時間は観測場そのものであることがわかる とはいえここは大変な考察すべきところであって結論は観測とは時間そのものであるという結論になった.  丸い玉を外から見てながめるのではなく私たちはその玉の内側から玉そのものを観測しているというのがイメージとしては正しいのであり玉のそとには何もなく空間はなく玉以外はその外に何もない その玉を客観視するのに時間の存在が必要であるし少し話が飛ぶがつまり意識の存在につながるわけである この時間という概念の中に生命の進化と意識の成長そしてこの宇宙の存在まですべてが説明されなければならない なぜなら不確定性理論がこの世界の根底をなすものならこの次元式の中の時間 空間 質量以外の存在次元量はないからである ではどう説明するのか 今論では時間と意識との関係からプランク時間を不確定最小時間量と考えこの時間を最少意識量と置き換える つまり一瞬の不確定時間量の最小時間単位である この最小時間単位を整数倍していくことが一瞬一瞬の積み重なりであり大きくスケールアップしてゆくと人間の感じる一瞬になる

 なぜ原子核は陽子はプラスの粒子ばかりなのに集まるのか? なぜ原子核の周りに電子がかならず存在するのか?なぜ原子は集まって分子を作るのか? なぜ分子はあつまって物体を作るのか? なぜ分子が集まってたんぱく質を作るのか?なぜたんぱく質が集まって細胞や生命を作り出したのか? なにもそんなめんどくさいことする必要ないし そうなってゆく必然性はどこにあるのか 普通に考えれば粒子はそんな複雑な作業をする確率はとんでもなく低いはずである こういった疑問は科学では説明してくれないし しても麒麟の首は高いので餌にとるのが便利だから長くなったんだ のような結果に対する言い訳説明になるだろう 私はそこになんらかのそちらに向かう方向性ペクトルがあるのだろうと考えます それは時間量だと考えるのです  素粒子から宇宙まですべての存在をあらしめている今という統一体それを存在させようとする意思 これがこの世界を、貫き通す1本の柱である。つまり、今をあらしめる 要請がこの統一体の最も、重要な根本的な上下を貫く感覚ベクトルである この柱を通して世界のミクロから宇宙までのできる存在がある その統一系統にあるのがあえて感覚であるといおう。感覚といっても、人間レベルの感覚と微細なレベルの感覚は当然違う 例えば、皮膚感覚は細胞レベルの集合体の感覚で痛い 痒い 熱い 音 味 臭い等であり、いわば五感であろう。これが、高度な生命体になれば、これに記憶が加わって感情の動きとなる。動物クラスでは、怒り 喜びがありこれが、人間クラスになると感動 感激 同情 悲しみ 等低いレベルでは、感じられない感覚が生じる

この世界の本質とは観測によって成り立っている。 不確定性原理が成立すれば観測しなければこの世界は不確定だ。しかし月は見なければ存在しないのか、アインシュタインから反論があったともいうが 観測とは何かで意見がわかれるところであろう。今論では時間量のことである。時間量はたくさんの時間レベルが今の瞬間に同期して重ね合わせになり時間量小世界を時間量大のレベルが観測をしているのである。肉体でいえば細胞を観測しているのはその周りの肉体であり外部からの刺激や環境シグナルの分泌物であろう、その内部の核DNAやたんぱく質の不確定を守る細胞膜が観測の限界である。その中は量子現象でがいぶ外部シグナルにより観測され遺伝子情報が確定される。こう考えると感覚は量子現象の延長といえるかもしれない。つまり量子の観測による収縮は感覚に成長する。感覚は観測であり、人間以外の生物すべてが(ウイルス 細菌まで何十万種類)まで観測している、人間が知らない世界をだ!それ以下の無機物はどうだろう?ウイルスもいないとなると不確定だろうか?観測がないのにそこに厳然と岩があるということは その周りに空間があるということは空間を認識する生物が観測?いやまったく生物のいない宇宙では そうか人間以上の高次元の何か(生物?)に観測されていたら まあ観測はその周りの環境がしていると?いやおかしいだろう 宇宙あらしめるなにかが存在物を感じせしめる、としておこう しかしなにか逃げ口上にかんじる  ではこうしょう いやそうだきっとそうだ!観測は意識は存在の規約をあたえるのだ!何等かの存在物がまえもってある それは不確定である。空間も質量もすべてがである。それがその観測 感覚などで場がつくられる(距離 質量 動き(時間)と考えよう こうして量子の世界と繋がる そうすると総じて時間量の理論で統一できる こうだ 時間量は観測である。今を作り出している 


 

不確定性原理 、物質の位置を正確に測定しようとすればするほど、運動量が不明確になっていき、逆に運動量を正確に測定しようとすると、位置が不明確になっていくというわけです。これは客観性の限界でありここに主観性との関わりがあるとみます観測とは主観と客観の干渉です この限界誤差はこの二つが干渉して誤差が生じるものであります そこに主観が客観に導入されるチャンスがあるのでは?と考えます というのも今は一瞬です その前後はありません この一瞬は距離 質量の誤差のように客観だけでは計量できません 時間の一瞬は感覚です そこで不確定性原理をしらべてみたいと思います これはニュートン力学(古典力学)において物質(粒子)は位置と運動量とを同時に望むだけいくらでも正確に測定できるという常識を決定的に覆すものです。 以下にハイゼンベルクの不確定原理の式を記載します。  ΔpΔx≧h/4π    ここでΔXは位置の不確定性、ΔPは運動量の不確定性、hはプランク定数 仮にをゼロに近づけていくと、Pは無限大に発散していきます。逆も然りです。 原子における電子雲の拡がりの存在はこの不確定性原理で説明されます 陽子に比べるとその質量比は 1/2000にすぎない分電子の場の拡がりが何千倍となる 逆に電子の位置精度を原子核ぐらいの大きさに高めると運動量の不確定が大きくなりとても原子核サイズの位置にいられないとなります どうであれ電子の存在拡がりは不確定場のことなのです  不確定性原理のプランク定数を 次元式で書くと    h=mL²/T     hはプランク定数です  このhはジュール ,秒の単位を持っているわけですが物理学の最も基本原理がこの不確定性原理です  これはエネルギーと時間あるいは 位置と運動量の同時確定値がとれないという観測問題であります これは空間と時間の本質的な関係を意味しており 意識と時間の関係から 不確定性理論とは意識にかかわる議論であると私は考えるのですーー(不確定性理論と意識  別稿) 今論の立場から不確定性原理をわかりやすく説明すると、、観測側の時間の不確定が、その本質である。例えば、1cm 刻みの物差しで何かを測ろうとしても、1cm 以下は、測れない つまり不確定である。1mmとしても、1mm以下は、測れない これが、時間の物差しであっても、同じである 時間が不確定であれば、そのエネルギーや運動量等ある不確定さが出てくる。今論においては、時間量が各レベルにおける不確定の時間幅を意味している。本来、距離は行けば、戻ることもできるし、質量は増やしたり、減らしたり、できる。ところが、時間は、今から抜け出すことができない。過去へいったり未来へ行ったり、できない。問題は対象にはなくものさしにある つまり、 観測側の不確定が現象として現出しているだけなのだ (あくまで持論です) つまり不確定さは観測する側にあるのであって この時間に不確定さを要求するには、新しい概念を導入する。これが、時間量である  不確定性原理をいじる この世界はすべて力の釣り合いで成り立っています 力のない現象はありません  存在ということ自体が ある力の釣り合いなのです 一般に物理学では空間方向の変化を力で表し力学を構成しています 力は質量 加速度 つまり空間 時間 質量の次元で表しますがこの中の質量は何か 物理学では次元の一つとしてそれ以上分析していません アインシュタインが質量とはエネルギーであると説明しましたが エネルギーとは何か? つまりこの質量が解明されていないから重力場が説明できないわけで統一理論がいまだに完成しないわけであります そこでこの不確定性原理を少々いじります まずプランク定数は物理現象の基本定数でありすべての物理量の基本定数であり 光子の持つエネルギー(エネルギー量子)は振動数に比例し、その比例定数がプランク定数と定義される[1] 光のエネルギーEは光子の持つエネルギーの倍数の値のみを取り得る: 上の式からhは一波長分のエネルギー、秒であり単位は角運動量単位であることがわかる  このhはこれ以上分割できない この倍数ですべての物理量が表せる それで逆に   このプランク定数が単位を持たないスカラー値という仮定を入れる なぜそうするかというとE一つの解釈の仕方ではあるが むしろこの単位を持たないプランク定数から観測という行為を通して場と質量と時間の単位がつく物理量が現出して次元式が分析できると考えることもできる わかりやすい例えでいえば MとL^2と1/Tを三次元のXYZとして風船をイメージするとその体積がプランク定数となりそれをどうのばしても縮めてもその体積は変わらないとイメージできそれゆえその体積を定数としてそれ以下の誤差はないとしてこの定数からTやMやLが現出したのだとイメージします あくまでイメージです そうしますと三個の変数で二つ決めるともう一つは自動的に決まります プランク定数の次元式は h=ML^2/T で角運動量と同じ式になる 角運動量は本質的に素粒子のスピン 内部スピンなども角運動量として保存される量であり同じ次元式を持つ スピンは素粒子の本質的な基本量でありこれが不確定性原理の次元式と同じである つまり角運動量は素粒子の最も本質的な量であり現代物理学ではこの角運動量からすべて構築されている最も重要な量である  ΔEΔT≧h/4π ΔPΔL≧h/4πのようにこの関係をエネルギーや運動量であらわすためわかりにくくなっているが このプランh/4πク定数量が本質的に空間と時間の切っても切れない関係を表している ジュール.秒の単位を持っているがこの定数はどんな時も不変で物理学の基本単位である それゆえ逆にこの単位をなくしてしまい単なる定数にしてこの定数により時間と空間と質量の関係があらわせると考えるとどうだろう hの次元式は h=一定=mL2/Tこれが場の本質だとして逆にこれから不確定性理論が成立すると考えると  h=mL2/T ~mL/T ・L ~mL2・T/T^2  これが現象として表現されるのが  ΔpΔx>h ΔEΔT>h であるとも考えられる この場合空間を移動する時 時間の流れが一定であるという条件の下であることに気をつけなくてはいけない この条件下で運動量とエネルギーが表現されるわけである もう一つの表し方がある 次のように式を変形する hT=mL2 hはスカラー定数として考えるとこれは意味ある式であろうか? 不等式ではなくこの両辺をイコールとするとこれは観測を意味する。素粒子などは霧箱でその軌跡を観測するわけだがほぼそも大きさが限定される。大きさの誤差が最小限にすればこれは最小限hに誤差が近ずくわけでこれは観測を意味することだ,これをT=mL2/h(時間量)  ここで時間を客観的な流れとみると何のイメージもわかない Tは分母にあって計測を意味するが分子にくるとたんなる物理量の羅列にしかない  そしてプランク定数を無次元とするとTはもはや時間ではなくなる TはmL2という次元を持つ量になり物理量と場の拡がりともいうべき量になる これを時間量と名ずける(とりあえずである 存在量というかあえて意識量というか?) そしてこのML^2を不確定場と名ずける この不確定場は観測二よってば場となる この場は空間の拡がりではなく存在量ともいうべきもので観測によって人レ ベルで空間となる この深く手ば不確定場は質量 空間などが生まれてくる 今論ではこのTが一瞬の不確定場でありこのTが素粒子クラスから重ね合わせになっていてその一瞬を感じる つまり今の一瞬は同じであるから T1T2...Tn Tn+1 ここで  は感覚的に同じであることを意味しています   時間と時間量の関係は一秒単位として t=|Tn|/|T1| (Tnは観測対象の時間量 T1は一秒あたりの時間量) したがって不確定性原理の次元式は時間量で表わすとh |Tn| h =|T1 | mL^2    (|T1|は定数 決定数) |Tn|=|T1|/h  mL^2 これから類推して|T1|/h=kとして |Tn|=kmL^2 この式は |Tn| に対応する場の拡がりをLんと表わして |Tn|=kmLn^2とする このLをiLとしてTと直行するイメージで式を書き直せば  ーTn=km(iLn)^2 と書ける  このとき TもLもペクトル量となる この形から時間量も不確定性原理と同じ形の式に書ける t=mL^2/h T=mL^2 T1/h ゆえに これを図で書くと次のように表わすことができる Tj=KL^2 が重ねあわせて Tn=(K+K+K+...)L^2 このL^2は観測した時の収束場で観測しない時はLは確定しない 収束場とはこれ以下には収束しない場のことで誤差の限界のことであります このL^2がの中でたくさん重ね合わさって大きな時間量を作りだす こうしたイメージです 図にすると    |T|同士の関係はどうなるのか Tは今に存在しなくてはならないか今に同期しているはずだ 最初のT0 の絶対値を最小単位ときめ それをt0 と置く このt0の整数倍がすくなくと今に存在する同期の必要条件である 波動で言えば一波長の整数倍でなくては波が荒れうなりが生じるようなものである 一波長の整数倍でも2と3 2と5などは 割り切れない 同期しない                 注意しなくてはいけないのはこの次元量は誤差の範囲 不確定量ともいう関係の式であることです    これの初期段階つまり、不確定性原理が成り立つ粒子として観測される。時間量が、大きくなるに従い、不確定場も大きくなる 問題は、不確定性場が大きくなるとは何を意味するかということである  この前提にプランク定数が単位を持たないスカラー値という仮定が入る しかしこのプランク定数は物理学の大前提であり すべての考え方の基本定数である むしろこのプランク定数から次元式が分析できると考えることもできる 本質的に観測にかかわる量であり波動の収束から量子のもつれ現代物理学の最先端の考え方の原理になっている理論であります 客観性の限界といいますかこの理論には観測側がかかわってくるわけで時間 空間 質量の密接な関係を表わしています 我々の世界では時間が定数になって空間と質量が自由度を持っています 時間が定数とは現実世界では時間から少しも抜け出せない時間とともにすべての現象が現れてくるからです 我々は少しも過去未来に行き来できないわけで現実に今に縛られています 時間が定数とはそういう意味です 今度は空間を定数 にすると時間と質量は本当に自由度を持つのでしょうか? 今の科学ではそれは考えられない想定でありますが 今論では時間はながれていく量ではなく一瞬の重ね合わせで考えていますので時間量というものが存在します プランク定数の次元式からT幅が大きくなるとM幅も大きくならざるおえないということになります 今論においては本質的に空間は存在しない あるのは時間量の重ね合わせであります 本質的に不確定性理論は観測の限界を規定する E=hw(wは振動数)からh(プランク定数)は一波長あたりのエネルギーとも考えられ この 一波長あたりの時間幅をプランク時間を最小としてその整数倍で一瞬一瞬が成り立っていると考える この世界は、観測の連続により、成り立っている。観測とはのレベルにより、上位レベルが下位レベルを観測することを意味する。そのためには、という新しい概念を導入する この観測という概念はその上のレベルの時間量から下のレベルの関わることを意味しているのであって。単なる見るとかそういう概念ではなく、相互作用から感じることまですべての干渉を意味している。今論においては、この相互作用から時間量の飛躍により、感覚が生まれ生命の存在を現出している。物理学の力エネルギーから分子結合をタンパク質の形成へ感覚の成り立ち生命の誕生意識まで一貫として、同じ理論で説明しようとする試みである。その時間量が、不確定性原理を基本定理として、、時間量という概念を導入してその飛躍によりレベルが上昇してい この角運動量を空間方向ではなく時間方向に拡大解釈してしまおう どうしてこうするかは意識と時間のい しかしながらレベルによりその一瞬の時間量の違いがある それを例えば 我々の意識レベルを Tn 一つ上のレベルを Tn+1 とする ある物体が L +1からL+1へ移動した場合を考える 私が一瞬 Lの時 T n で L+1 の時ももちろん Tnである意識レベルは同じである しかし L+1の時 Lは過去である  我々の意識レベルはTnであるが一つ上のレベル Tn+1 では時間の進みが遅いためまだ今かもしれない T0 < T1 < T2 < T3 p定でありそのレベルのΔTが大きくなればそのML^2もおおきくなる ということは不確定性理論は時間レベルにより空間レベルの不確定も巨大化してゆく よく例として出されるのがバレリーナの回転である 手を縮めると回転が速くなり手を伸ばすと回転は遅くなる このイメージで角運動量を考えると手を広げると L が大きくなることでありその回転面が広くなること Lが2倍になると Mが変わらなければ Tが4倍になるこれは空間方向の拡がり(L^2)の不確定が 2倍になると時間を方向の不確定も 2倍になる  これはある一定面積範囲における時間密度が質量であるということを意味しているのかも知れない ただこの場合はプランク定数を逆に次元式のない定数として考えている  少しわかりにくいけどもう少しわかりやすく説明し直しますと空間方向への変化は時間の流れは一定であるという前提で物理学は成り立っていますが この場合は時間の変化を表すため時間の流れの一定をやめプランク定数一定から空間と時間の関係を考えています    ここでhとMを定数としてT=(M/h)L^2 からL^2がTに比例するという関係であり Lが2倍になればTは4倍になること そこで L1 と T1 を最小単位としてn^2Ln=Tnの関係にありすなわちとびとびの関係になる 波動の形でグラフを描けば次のようになる        このTは一回転した周期時間で横軸に時間 Tを表した的その波長の幅を表しています この 1周期が最少単位がプランク時間として考えるとこの Tはこれ以上分割できないということであり それゆえこれを最小単位の一瞬と考えます この一瞬のとびとびのたくさんのレベルが重なって今の時間の流れが現出すると考えるのです したがってその一つ一つのレベルにはそれぞれの一瞬がありそのひとつひとつは分割できない一瞬一瞬であります ”今”はこうしてたくさんの時間の重なりで出来上がっています これをグラフで下に表してます 大事なことはこの”今”にあわせるためにこの 一瞬一瞬は不連続であることです 波動でいえば”今”を始点とした定常波でなくてはならないことです ただ具体的にはまだ説明できませんが 人間でいえば大脳は一秒の間に40回の脳波が視床の異なる部分から発振しておりこの波が脳全体をリズムよくなでている 私たちの意識はこのリズムでなりたちこれが最小単位であろうと考えられる つまり私たちの一瞬とは1/40秒のことというわけである もちろんあくまでこの時間は生理的リズムのことで顕在意識に現れる意識リズムはもう少し遅いだろう 細かいことは専門家にお任せしよう しかしながらその1/40秒の間にはるかに早く神経シナップスは連係して電気信号を流し神経細胞レベルでは何千という蛋白質を作り出し細胞ネットワークを配線するのだ 詳しいことは別稿にゆづるとしてこうした意識レベル 生理レベル 細胞レベル たんぱく質レベル などたくさんのレベルで時間の流れが違いそれぞれの時間量が ”今” に同期され統合されるというわけである ところでこの不連続はどのような起因で上のレベルへ上がってゆくのだろう 先ほどお話したように 一瞬一瞬は絶対である プランク領域に近いところの量子がとるプランク時間 プランク長 などを最小単位として h=M L^2/T に M=1から順番に 2 3  4 を当て込みその条件下で Lと Tの関係をあらわしでみた それが  (あ)式である    この時間の不確定量として時間量という新しい概念を導入するわけであります するとmやLにもこの時間量での不確定場としての意味をなしてくるととらえることもできる  不確定性原理の次元式から、 h=ml^2/t で。h は前述した通り、スカラー定数として単位をなくす それにより T=mL^2  となる ここで、mをn(1.2.・・・・・n)としてn=1の時 T=L^2  は -T=(iL)^2 とおける  TとLは直交しているから複素式として表せるので 解釈によって下図のようにも描ける   線積分 これは面微分と線微分との関係である ds/dt=dr2/dt=2r・dr/dt 両辺にmを掛けて角運動量次元にすれば 2r・m・dr/dt~r・P これは運動量と位置の不確定原理である 今論ではTは観測でありこの観測により収束しL2の不確定場ができる この拡がりは不確定性要素の拡がりでありこれは一番初期の不確定性場となずける それを(T1 L1)としよう このT1を一つ上のT2から観測するとT2の今にはT1のL1が今の重ねあわせで観測される  T2=T1+T1+・・・・=nT1  (便宜的に=観測として また+=重ね合わせ も同じ)) T2=nT1=m1L12 上の式と不確定性理論の次元式を比べると形だけならm=nである これは質量が不確定場の重ね合わせた係数nにあたるという事 Tnは下位レベルなら(2)のようにダイレクトに観測することもできる 人間が素粒子クラスを 観測したりすることがこれにあたる (3)は連続的に下位レベル「を観測した場合である 自然界はこれである  どのレベルを観測するのかは意図的であれば選択できる T2=T1+T1+・・・・=nT1  (便宜的に=観測として また+=重ね合わせ も同じ)) T2=nT1=M1L12 上の式と不確定性理論の次元式を比べるとm=nである これは質量が不確定場の重ね合わせた係数nにあたるという事 Tnは下位レベルなら(2)のようにダイレクトに観測することもできる 人間が素粒子クラスを 観測したりすることがこれにあたる (3)は連続的に下位レベル「を観測した場合である 自然界はこれである  どのレベルを観測するのかは意図的であれば選択できる Tは今論では、観測を意味している。つまり、観測をすると、場が、できる。この場はnを1として、最初の観測でT2がT1を観測することから始まる  Tを分子にもって来ると、質量と場の拡がりの不確定場が大きくなると時間量も大きくなる。当たり前の事である。しかし、時間量が、決まれば、場の収束も、不確定性原理から限界が、あります。 式   kTML2 (kは定数) 観測する前は、場の拡がりがどんなに大きな不確定場でも、構わない。しかし、波動状態の素粒子を観測すると収束するから観測したら、その不確定場の最小値以下には収束できない ここで時間量の発想を導入する 時間量は”今”に同期するため少なくとも整数でなくてはいけないとするとその場も階層をなさねばならない あまり不確定場が大きいともう一つ上の時間量に関わるため 不確定場もそれなりに大きさの限界がある 小さなアリがボールが飛ぶ(ボールの占有する質量と場の拡がりの不確定場が大きい)のを判らないようなものである このTの階層があるからそれぞれに収束の限界ができる       T1  M1L12  T2  M2L22  T3  M3L32 ~       Tn  MnLn2  Tn+1  Mn+1Ln+12              (あ)  これの初期段階つまり、不確定性原理が成り立つ粒子として観測される時間量が、大きくなるに従い、不確定場も大きくなる  今お話したように存在とはそれを認識したとき時間も現出するとお話しました それは観測により発生するわけですがこの観測は時間量の重ね合わせですらさ この時間量は大きな時間量から小さな時間量を観測することで成り立ちます なぜなら時間は時間量の勾配から現出するものですから 小さい時間量から 大きい時間量はその時間量の範囲でしか今を観測できないからです  

感覚は絶対量であります 相対量ではありません 較べて説明できる量ではありません 痛いを数値でくらべても痛いそのものはをれを感じる本人しかわからないです 。客観で説明できないから科学では無視されます 客観性でないと理論として成立しえないと科学信仰(物理学)から外れるからです( しかし主観であることで無視されることはおかしいと考えます。 科学が空間 質量 時間という基本量で理論体系でこの自然を構築するといろんなパラメイターが入り込む複雑化して今だ完成しません、  例えばクオークや重力子の存在を予知したり次元を増やしたりして理論化しようとする、 こうして量子化してパラメータを増やすことがこの世界の真理に近づくとは思えません 前述したように客観量の中に主観量に近い量はないかといえば時間次元はどうであろう? まだ時間と何か 本質がわかっていない、 いや解ればこの世界が説明できるかも知れない このお話は今論で説明してありますがそれと感覚との関係です、 前述したようにリベットの実験で 意識とは何かというテーマで脳の感覚皮質へハルス刺激を与えそれと皮膚刺激を時間差を与えそのあいだの関連性を実験した記録である 皮膚に刺激を与えそれを感じる時間差を実験したところ人間は 500ミリ秒のタイムロスを過ぎ被実験者は感じたというわけであるが、本人はそのタイムロスを感じていない つまり皮膚刺激を実行してほとんど同時に感じたと報告する、しかしながらそのあいだに 500ミリ秒の時間が過ぎているというわけである。その一瞬を不確定にする 意識化なるのにその時間 かかるが、その時間を感じさせない むしろ消し去るようにして意識は形成されることから、時間と感覚が何か密接な関係あることが予感される。このことから時間の一瞬が感覚と関係するのでは?という発想が湧いてきた そこで次のように定義してみる  観測すると場が収束するとはその場を意識するということである。 意識とは、リベットの実験から推測できるようにできあがるのに時間がかかる、 これを時間量という そのレベルが量子からたくさんあり時間量の重ね合わせこの世界が成り立っているということは意識の層でこの世界は創造されたと 考えることもできる。つまり意識の波動である。 生物の高い意識波動から単細胞生物までのは意識とは感覚の存在であり感じるのは意識があるのである。 生物として存在するのは感じることであり感じれば時間の収束があり、場の収束である感じるレベルの最小はおそらく細胞膜でかこわれた単細胞生物であろう、 細胞膜は一箇所で刺激をおけたら細胞膜全体でその刺激を感じるようにある時間量をもち、時間の不確定をつくりだす、 それが細胞膜全体に感覚を発生させる それよりレベル下の 細胞内は時間量は量子系の動きとなる 素粒子や分子は最小レベルで量子論に対応する  つまり時間量のレベルによって、素粒子から大きくなるに従い分子有機物 細胞を一体ととらえる基本的要素の感覚 細胞がたくさん集まってひとつになりそれ を感じさせる感覚統合して意識となる 感覚の発生まで時間の収束のお陰なのである、感覚は絶対量であります 相対量ではありません 較べて説明できる量ではありません 痛いを数値でくらべても痛いそのものはをれを感じる本人しかわからないです、 客観で説明できないから科学では無視されます 客観性でないと理論として成立しえないと科学信仰(物理学)から外れるからです、 しかし主観であることで無視されることはおかしいと考えます 科学が空間 質量 時間という基本量で理論体系でこの自然を構築するといろんなパラメイターが入り込む複雑化して今だ完成しません  例えばクオークや重力子の存在を予知したり次元を増やしたりして理論化しようとする こうして量子化してパラメータを増やすことがこの世界の真理に近づくとは思えません 前述したように客観量の中に主観量に近い量はないかといえば時間次元はどうであろう? まだ時間と何か 本質がわかっていない いや解ればこの世界が説明できるかも知れない このお話は今論で説明してありますが、それと感覚との関係です 前述したようにリベットの実験で 意識とは何かというテーマで脳の感覚皮質へハルス刺激を与えそれと皮膚刺激を時間差を与えそのあいだの関連性を実験した記録である 皮膚に刺激を与えそれを感じる時間差を実験したところ人間は 500ミリ秒のタイムロスを過ぎ被実験者は感じたというわけであるが、本人はそのタイムロスを感じていない。 つまり皮膚刺激を実行してほとんど同時に感じたと報告するしかしながらそのあいだに 500ミリ秒の時間が過ぎているというわけである、 その一瞬を不確定にする。 意識化なるのにその時間 かかるがその時間を感じさせない、 むしろ消し去るようにして意識は形成されることから時間と感覚が何か密接な関係あることが予感される、 このことから時間の一瞬が感覚と関係するのでは?という発想が湧いてきた そこで次のように定義してみる  観測すると場が収束するとはその場を意識するということである 意識とはリベットの実験から推測できるようにできあがるのに時間がかかる これを時間量という そのレベルが量子からたくさんあり時間量の重ね合わせこの世界が成り立っているということは意識の層でこの世界は創造されたとかんがえることもできる つまり意識の波動である 生物の高い意識波動から単細胞生物までのは意識とは感覚の存在であり感じるのは意識があるのである 生物として存在するのは感じることでありかんじれば時間の収束があり場の収束である感じるレベルの最小はおそらく細胞膜でかこわれた単細胞生物であろう 細胞膜は一箇所で刺激をおけたら細胞膜全体でその刺激を感じるようにある時間量をもち時間の不確定をつくりだす それが細胞膜全体に感覚を発生させる それよりレベル下の 細胞内は時間量は量子系の動きとなる、素粒子や分子は最小レベルで量子論に対応する  つまり時間量のレベルによって素粒子から大きくなるに従い分子有機物 細胞を一体ととらえる基本的要素の感覚 細胞がたくさん集まってひとつになりそれ を感じさせる感覚統合して意識となる。 感覚の発生まで時間の収束のお陰なのである 時間収束とは感覚  意識のことでありつまり意識の波動のレベルによる重ね合わせがこの世界を創造しているといえる 今論でいえば今が意識こととであるそれでは素粒子からの流れを説明していこう     今論でいえば今が意識とのことである、それでは素粒子からの流れを説明していこう    32

感覚とは絶対的なものである. 例えば痛いと思うのはその人しか感じられないものであり,ほかの人にはその感覚は正確に客観的に感じられるものではないということである.つまり客観的に測れないものである 私が痛いと思う時この痛いは本当に痛いのであり数値化できないのである,この痛いを他人に分からせること はできない絶対的感覚だからである,説明するのも難しいなあ、  色もそうである科学的には色は光の振動数で説明する しかしながら 、色そのものは赤青黄などは説明のしようがないものである。 お互いに同じ色を見ていると仮定の上で話しているわけであ,る。 聞くことも同じように空気が振動して鼓膜に伝わり、 それを音として認識する、 あいうえおを 聞き相手もあいうえおと同じように聞こえているか?本当に同じ あいうえおなのか通じているから同じだろうと推測するしかない、 しかし一つの細胞が人間になるまでにたくさんの神経細胞が絡み合い,大きく成長するそれらの神経細胞が 同じような地図を描くのだろうか?多少の差異があった方がするのを普通だろう。 であれば 考えてみればこれらの感覚がもしすべての人に同じように見えたり、聞えたりしたら,むしろ その方が不思議ではないだろうか? そう考えるとむしろこの感覚の方が先にある人間同士を超えた共通の感覚が先にあると考えた方が何か合理的に見えてくる, 実際 視覚で言うと視野の 3 %ぐらいしか視神経には光が入ってこない.。 眼の中心部分に光は集中し周囲は能の中で作りだされていくという, そんないい加減でどうしてほとんどの人間はこの世界を同じように見ているのだろう 例えば思い切り回り止まれば周りの視野は止まったら、同時にはっきり見える。止まった瞬間視野が簿けることはない  勿論 これは一瞬の時間の問題と説明はつくが,周りの環境はそこに厳然としてあり我々の脳を通した光でこの世界がつくりだされるとは思えないことである. ほとんどの人間が同じような世界を見て同じように聞いて同じように味を感じ同じように喜び同じように悲しみこういった感覚感動が一致するのはなぜだろう。 脳の中でこうした感覚がつくりだされるなら中には楽しい時に苦しんだりけがした時に痛いと感じなかったりもう少し例外が多くてもいいのではないだろうか,というあまり科学的説得力のない推測の言い方ではあるが これはほとんどの生物に当てはまる 犬と人間の違いはない 犬でもうれし時はうれしいと表現する 怒る時はやはり怖い 怒る時に喜ぶ犬を見たことがない まあこのあたりはいくらでも理屈はつけられる。進化してきた元が同じだからそうなるそれもそうだ、 あまりこのあたりは追及するのはやめよう。  もう一つ重要なことがある.  経験した感覚以外は想像できないということである。 どういうことかというと具体的に視覚について考える。  映画のスクリーンに例えると,視覚と少し違うことがある。 それはスクリーンの境い目が映画はわかるということである, スクリーンの外は真黒である我々の眼はどうだろう?見えないとこと見えてるとこの境い目がわかるだろうか。瞼の上は黒くなってない!何もないのである!境い目が分からない 人間の感覚では目の境い目は 黒くならないないのである 見えないということは色も無いのである何もないのである しかし、天井があるのはわかっている それは経験で知っているからである もし経験がなかったら想像できるであろうか?見えてるところがすべてと認識するのではないだろうか これは私たちがこの世界が三次元の 360度全部見えていると 思い込んでいるだけかもしれない この世界を 360度以上に想像できないからである これはほかの感覚器官でも同じである味でも甘いからい苦い 酸っぱいあとはうまみ?それ以上の味を想像できるであろうか?  においは何万種類とわかるらしいが,経験したごと以上の新しい感覚は想像するとかできない 何を言いたいかというと我々の世界は感覚によってつくられたイメージで,それ以外の世界があっても感知できないということ たとえ目の前に何かが存在してても五感では感知できないと,したらなにもないと同じことだ 意識こそがすべての力の源で この世界は四つの力プラスアルファの力の均衡で成り立っている,この力は意識つまり時間の変化であり時間の変化 = 力の世界でこの力は今を成り立たせるために必要なパワーであり,それゆえ今がある お分かりいただきますか? つまり意識とは今の連続のことで、次々変わっていく時間の変化が力としてあらわれ、今を成り立たせているということです。       感覚は絶対量であります. 相対量ではありません 較べて説明できる量ではありません 痛いを数値でくらべても痛いそのものはをれを感じる本人しかわからないです, 客観で説明できないから,科学では無視されます 客観性でないと理論として、成立しえないと科学信仰(物理学)から外れるからです.( しかし主観であることで無視されることはおかしいと考えます。 科学が空間 質量 時間という基本量で理論体系でこの自然を構築するといろんなパラメイターが入り込む複雑化して今だ完成しません  例えば、クオークや重力子の存在を予知したり次元を増やしたりして理論化しようとする こうして量子化してパラメータを増やすことがこの世界の真理に近づくとは思えません 前述したように客観量の中に主観量に近い量はないかといえば時間次元はどうであろう? まだ時間と何か 本質がわかっていない いや解ればこの世界が説明できるかも知れない, このお話は今論で説明してありますがそれと感覚との関係です。.前述したようにリベットの実験で 意識とは何かというテーマで脳の感覚皮質へハルス刺激を与えそれと皮膚刺激を時間差を与えそのあいだの関連性を実験した記録である 皮膚に刺激を与えそれを感じる時間差を実験したところ人間は 500ミリ秒のタイムロスを過ぎ ,被実験者は感じたというわけであるが、本人はそのタイムロスを感じていない つまり皮膚刺激を実行してほとんど同時に感じたと報告する、しかしながらそのあいだに 500ミリ秒の時間が過ぎているというわけである。その一瞬を不確定にする 意識化なるのにその時間 かかるが、その時間を感じさせない むしろ消し去るようにして意識は形成されることから ,時間と感覚が何か密接な関係あることが予感される このことから時間の一瞬が感覚と関係するのでは?という発想が湧いてきた。  そこで次のように定義してみる.  観測すると場が収束するとはその場を意識するということである。 意識とは、リベットの実験から推測できるようにできあがるのに時間がかかる、 これを時間量という そのレベルが量子からたくさんあり時間量の重ね合わせこの世界が成り立っているということは意識の層でこの世界は創造されたと 考えることもできる つまり意識の波動である 生物の高い意識波動から単細胞生物までのは意識とは感覚の存在であり感じるのは意識があるのである 生物として存在するのは感じることであり,感じれば時間の収束があり場の収束である、感じるレベルの最小はおそらく細胞膜でかこわれた単細胞生物であろう、 細胞膜は一箇所で刺激をおけたら細胞膜全体でその刺激を感じるようにある時間量をもち、時間の不確定をつくりだす。  それが細胞膜全体に感覚を発生させる それよりレベル下の 細胞内は時間量は量子系の動きとなる 素粒子や分子は最小レベルで量子論に対応する  つまり時間量のレベルによって素粒子から大きくなるに従い分子有機物 細胞を一体ととらえる基本的要素の感覚 細胞がたくさん集まってひとつになりそれ を感じさせる感覚統合して意識となる 感覚の発生まで時間の収束のお陰なのである感覚は絶対量であります。 相対量ではありません 較べて説明できる量ではありません 痛いを数値でくらべても痛いそのものは をれを感じる本人しかわからないです。 客観で説明できないから 科学では無視されます。 客観性でないと理論として成立しえないと 科学信仰(物理学)から外れるからです( しかし主観であることで無視されることはおかしいと考えます、 科学が空間 質量 時間という基本量で理論体系でこの自然を構築するといろんなパラメイターが入り込む複雑化して今だ完成しません  例えばクオークや重力子の存在を予知したり次元を増やしたりして理論化しようとする こうして量子化してパラメータを増やすことがこの世界の真理に近づくとは思えません 前述したように客観量の中に主観量に近い量はないかといえば時間次元はどうであろう? まだ時間と何か 本質がわかっていない いや解ればこの世界が説明できるかも知れない このお話は今論で説明してありますが、それと感覚との関係です 前述したようにリベットの実験で 意識とは何かというテーマで脳の感覚皮質へハルス刺激を与えそれと皮膚刺激を時間差を与えそのあいだの関連性を実験した記録である。 皮膚に刺激を与え、それを感じる時間差を実験したところ人間は 500ミリ秒のタイムロスを過ぎ被実験者は感じたというわけであるが 本人はそのタイムロスを感じていない。 つまり皮膚刺激を実行してほとんど同時に感じたと報告するしかしながらそのあいだに 500ミリ秒の時間が過ぎているというわけである。  その一瞬を不確定にする 意識化なるのにその時間 かかるがその時間を感じさせない むしろ消し去るようにして意識は形成されることから時間と感覚が何か密接な関係あることが予感される このことから時間の一瞬が感覚と関係するのでは?という発想が湧いてきた そこで次のように定義してみる  観測すると場が収束するとは、その場を意識するということである。  意識とはリベットの実験から推測できるようにできあがるのに時間がかかる これを時間量という そのレベルが量子からたくさんあり時間量の重ね合わせこの世界が成り立っているということは意識の層でこの世界は創造されたと考えることもできる。 つまり意識の波動である。 生物の高い意識波動から単細胞生物までのは意識とは感覚の存在であり、感じるのは意識があるのである。 生物として存在するのは感じることでありかんじれば時間の収束があり場の収束である感じるレベルの最小はおそらく細胞膜でかこわれた単細胞生物であろう 細胞膜は一箇所で刺激をおけたら細胞膜全体でその刺激を感じるように 、ある時間量をもち時間の不確定をつくりだす それが細胞膜全体に感覚を発生させる、 それよりレベル下の 細胞内は時間量は量子系の動きとなる 素粒子や分子は最小レベルで量子論に対応する  つまり時間量のレベルによって素粒子から大きくなるに従い、分子有機物 細胞を一体ととらえる基本的要素の感覚 細胞がたくさん集まってひとつになりそれ を感じさせる感覚統合して意識となる、 感覚の発生まで時間の収束のお陰なのである 時間収束とは感覚  意識のことでありつまり意識の波動のレベルによる重ね合わせがこの世界を創造しているといえる 今論でいえば今が意識こととであるそれでは素粒子からの流れを説明していこう     時間収束とは感覚  意識のことでありつまり意識の波動のレベルによる重ね合わせがこの世界を創造しているといえる 今論でいえば今が意識とのことである、それでは素粒子からの流れを説明していこう   

時間とは何か?から始めます 時間とは 時間と空間の関係 皆さん遠くへ行けば行くほど物が小さく見えるのは不思議だと考えたことはありませんか  当たり前すぎて何をゆうかとお思いでしょうか その説明までする必要はないでしょうが, 簡単にいえば視野が拡がるから相対的にものが小さく見えるというのは経験則で本質論ではないのでは?と思います 遠くの物 例えば自動車が近くを走ればすごい速度で通り過ぎるけど遠方でみれば小さく見えますから,自動車ものろのろ動いているようにみえます .でもそれは我々がその距離感を知っているからで もし距離感も自動車の知識知らない立場から観測したら見比べて小さく見える自動車がゆっくり動いてると判断するでしょう. なにをいいたいというと方位でも観測する方向は重なって一つの断面でみるということです. そしてそれが絶対観測条件なのです 遠くの自動車のそばにゆけば車は時速60キロで走るのがわかりますが その間に距離が近くなります そのことを経験でわかっいるから不思議だと思わないのです、 自動車の大きさを知っているから当たり前のように思いますが,もし視野が拡がらないならどこまでも同じ大きさであるという理屈になります。 目の前の鉛筆が一キロ離れても同じ長さに,見えたとしても理屈の上からは不思議はない なにをいいたいというと, 観測とはある一つの断面を通して見ることで同じ物体が小さくなると(見える)ゆっくり動く 大きくなればなるほど早く動く これは我々の観点の時間の進み方が絶対基準になつているからであります  これは変えられません これは逆にミクロの世界も同じです 見方によればミクロになればなるほど対象物は巨大化してゆくといえます そうなれば その動きは早くなります この事実をそう見えるだけと判断するのは経験則にすぎないのです, 観測点の時間の流れが基準になるなら 方位も重なった方向は 遠いほど小さくなります なぜこんな当たり前のことをお話するのか?といえばこれは時間にも当てはまるのでは?と考えるからです。    時間と方位の関数はグラフでもよくでてくるが 皆さん勘違いしやすいことがある. それは現実には方位(距離)は行き来できるが時間はできないということである グラフでかけばそれは紙面上の客観性で 書 けるから勘違い するのであります 過去や未来へいけない 常にその時間上に観測者はいるのであって客観的に時間は見えないのです これは大事な事で解りやすくイメージすれは電車の中から線路をみているようなものです. 窓の外の風景が後ろへ移動していく変化から時間を定義していますが当人は未来にも過去にもいけません今しかありません。 時間は未来に向かって?進むわけですからそれは電車の進行方向をみているのに当たります 進行方向とは枕木が重なって見えるのが正解で線路をそとから眺めているようにイメージすると勘違い起こすのです というのが現代物理学の客観性の壁なのです 時間は積み重なってみえるものにイメージするのが正解なのです ですからこの概念で時間を再構築しなくてはいけません この考えでいきますと時間量という一瞬の観測量ともいうべき物理量が必要となるのです 枕木の長さは遠くても同じはずです つまり近くへゆけばつまりそのレベルから観れば同じ一瞬ではありますが観測位置から見れば遠いほど枕木は小さくなりこの遠いとはミクロへ行けば行くほど時間量は小さくなるということです それらの一瞬を同時に今の一瞬にするため時間を重ねて考えなくてはならないからです 時間が重なっているとはどうういう事なのでしょう それは観測とは何かということであり それは時間と空間の発祥の極小値 プランク時間とプランク長の不確定原理までとばなくてはなりません    時間量とは何か 時間を説明するには時間量とは何か? の説明が必要です この時間量を究極の最小値まで行き着けばそれはプランク定数の不確定原理まで行きます とりあえずこの不確定原理のお話は後にしてこの時間量からはじめます 時間量とはこの例で言えば枕木にあたります この枕木の長さが不確定場の一瞬にあたりこれを時間量となずけます ???不確定場 一瞬 ??なんのこっちゃとなりますがあまり厳格に説明すると肩がこりますので できるだけわかり易くイメージしやすい お話でいきたいと思います 。



不確定場とは物理でいう場の拡がりのみではなく時間の不確定もいれ 後から説明するML^2=Tの不確定を時間量と名づけTで表す ここで注意してほしいのは あくまでこの概念は不確定性原理の誤差の範囲でこれからでてくる  T M L は  Δt  Δ」m ΔLの量子的重ね合わせのことです この説明はよくわからないでしょうが後ほど不確定性原理でします といいながらまずこの基本的方向性を大上段からお話しておかなくてはいけません ここだけは最初から理解できなくても当然のところですが骨の部分ですから書いておきます  今論においては今にしか世界はありません 過去や未来はありません 過去とは一瞬の不確定の拡大方向に内在され今とその過去が一瞬に内在して不確定の時間量の中にある方向 私から見れば光の飛んで言った宇宙方向でありますが あくまで私の今から見たらそのような方向に見えるというだけでありそれが私の見える宇宙なのです 今論の根本思想 この世界は、”今”の一瞬の統合体により成り立っている すべての現象は観測により成り立ち ”今”に収束しょうとしている しかし ”今”の一瞬が観測限界がありその誤差が不確定場であり 時間量として定義され この時間量は観測レベルにより決定され その同じ時間量の中ではその変化 動きはエネルギーの増加として表される 上位レベルから下位レベルへの観測が時間概念や空間間 質量などを現出させる 観測の最小限界は不確定性原理であり (その最小時間量をレベル1として置く) その次元式からMT^2の質的変化により時間量の飛躍(下位レベルから上位レベルへの上昇)が生じ(これを物質から生命へ進化と表現)生命が生まれ 感覚 意識が進化してこの世界が成りたっている。それにより、ML^2の時間量の質的変化が伴う これらのレベルは時間量の重ねあわせとなり”今”を形成する  上記の原理から生命とは何か宇宙とは何か この世界の成立がすべて説明できる  以上!  ごくろうさまです というわけでこれから一つ一つ説明したいと思います 今論序論 存在するとはなんだろうか  。数はどこまでも小さくできる。円周率でも に無限に小さく計算できる。つまり無限小という概念で現せる しかし、実在は違う 例えば、鉛筆で点を書けばそれはそれなりに範囲を持つ素材となり、どんなに小さくても、そのあとの存在を〜占める領域が必要である。つまり、限界小が、あるということである。 これを、これ以上観測不可能として、最小不確定性場と名付けよう 物理学では、電子等は、大きさを、もたない。存在として、説明される。。もうそれ以上分割できない。広がりという概念は不確定場に他ならない。この点の存在を観測した時、時間が流れる これは、意識ではなく、感じても同じである。感じる等は、その瞬間、時間が流れる 時間が発生する。何かが存在するということ 観測するということは、同時に、時間が流れる 二つに分割できない。時間それは、一瞬である。この一瞬は、感覚的な時間である。次に、この点を沢山重ねて上から見てみると、これは、やはり、点にしか見えない 点が10個重なれば10点という。シャレではないこの10とは点の密度というようなもの。になる。これは、質量のヒントがあるではないだろうか。今論では、この一瞬の重ねあわせがこの世界を、作り出していると考えている。一瞬の重ねあわせとは単なる波の重ねあわせとは違い、時間量の重ねあわせのことで、分割できない ,一瞬はどのレベルでも分割できない一瞬であり,一瞬の感覚は同じである。しかし上位レベル(後ほど説明)の一瞬の中に下位レベルの一瞬が包括されている。1秒を上位レベルの一瞬とすると下位レベルが0.1秒が10回そこに包括されている。上図でいえば枕木を間近から遠くまで重ねたようなイメージでだんだん枕木が遠くほど小さく見える(枕木が大きいほど上位レベル) そのまま重ねたイメージです 枕木が遠くても実際は同じだというのは客観的にはそうですがそうは考えない 絶対基準は観測側にあると考えるのです 大事なことは、客観的時間の流れではなく、感覚的一瞬にこそあるということである。、分割できない。一種の重ねあわせ、このアイディアでこの不思議な生命現象を説明できる、可能性が今論である。 上の説明からわかるように何かを観測した瞬間時間が発生する 存在すると時間は裏表なのですAのように小さな丸を認識するのにはその周りに余白が必要です つまり場の拡がりです 上の例では余白がドーナツ自身にあたるわけでつまり自分自身になります 装考えるとその余白とは場ですから拡大解釈すれば空間にあたります あれ!そうすると空間とは自分自身ということになります 厳密には場と空間とはちがいますがイメージです 時間量を説明するため不確定原理から始めたい      

今論序論 存在するとはなんだろうか  。数はどこまでも小さくできる。円周率でも に無限に小さく計算できる。つまり無限小という概念で現せる しかし、実在は違う 例えば、鉛筆で点を書けばそれはそれなりに範囲を持つ素材となり、どんなに小さくても、そのあとの存在を〜占める領域が必要である。つまり、限界少が、あるということである。物理学では、電子等は、大きさを、もたない。存在として、説明される。もうそれ以上分割できない しかし大きさをもたなくても実在している それは波動として存在している 観測すると量子として振舞う とにかく最小限度の存在である 本質的な存在とは? このテーマを追求した結果こういう考えになりました  存在のイメージ ここにに白い紙とその中に丸が書いてあるとする この丸認識されるのはその周りの余白があるからだ だがそれだけでは足らない それを上から眺める視線が必要だ 2次元の紙面の中ではその丸はたんに線にしかみえない それですべてだろうか?もう一つ大事な要素がいる それは時間の流れである 時間がなくては存在そのものがありえないからである なにを当たり前のことを話しているのか?それではこれらの要素で自己完結する理論はないのであろうか とりあえず次のようなイメージを考えてみよう 下図を自己完結にするにはどうしたらいいだろう? 自己完結とはオッカムの法則と呼ばれるこのもっと単純な解決策があれば複雑なほうを選ぶべきではないという法則である 自然界もそうであるべきでパロメーターが多い現代理論はやはり無理があると考えるべきである すくなくとも少ないほうがいい と考えている  A 自己完結とはこの二つの丸を一つの存在にしてしまうことである 中の丸は園周りの余白があればこそ存在を認識する ということは二つの次元があればこの中」の丸が認識できるか?そうではない この二つを外から眺める点が必要だ まあこれは三次元ですね ついでに時間が流れないとvしえませんね 時間は少し後で説明するとして この図を自己完結させたい つまりこの外丸 中丸 矢印以外は存在しないとしたい それには外丸をお椀のように上にそらして下図のようにすると丸は外と内が一つになり開いた空洞が存在認識となる   シンプルな立体ですとこんなのがそうですね  B   時間量とは何か 時間を説明するには時間量とは何か?の説明が必要です この時間量を究極の最小値まで行き着けばそれはプランク定数の不確定原理まで行きます とりあえずこの不確定原理のお話は後にしてこの時間量からはじめます 時間量とはこの例で言えば枕木にあたります この枕木の長さが不確定場の一瞬にあたりこれを時間量となずけます ???不確定場 一瞬 ??なんのこっちゃとなりますがあまり厳格に説明すると肩がこりますので できるだけわかり易くイメージしやすい お話でいきたいと思います 不確定場とは物理でいう場の拡がりのみではなく時間の不確定もいれ 後から説明するML^2=hTの不確定を時間量と名づけTで表す ここで注意してほしいのはあくまでこの概念は不確定性原理の誤差の範囲でこれからでてくるT M L はΔt  Δ」m ΔLの量子的重ね合わせのことです この説明はよくわからないでしょうが後ほど不確定性原理でします といいながらまずこの基本的方向性を大上段からお話しておかなくてはいけません ここだけは最初から理解できなくても当然のところですが骨の部分ですから書いておきます  上図のようなイメージは量子論の観測問題からくるもので跡で説明いたしますがこの理論の需要なテーマです 観測すると収束してものの存在を確認するというのが基本的考えになっています 今の穴にあたる部分が量子であるとするとその周りはその量子を客観的に観測する何かであるとする何かとは何か?その対象物を自身とは違うと感じる主観である。主観と客観で一つである。最も単純なモデルであります。物質は不確定場と考えていますからこの 虚空のモデルは相応しいです。色即是空であります。おい!これでは質量、時間、などがでてこないぞ!と 思われるでしょう、あわてないください。これから独自理論になります。この理論では一瞬に絶対性を取り入れます。これに関しては別稿をみてください。一瞬はすべてに優先します。今論の根拠です。今がすべてですとなると今、今、今と続きますこれは波動です今の一瞬が虚空であればその周りは余白は実在にあたりますこの今が重なり今、今、が大きくなります。今ですから時間の流れではありません。一瞬が大きくなります一瞬の不確定が大きくなるというわけです。この不確定時間は時間量となずけます今、の不確定は一瞬ですから測れないのです,測れたら一瞬でなくなります、時間の不確定とは何を意味するか?その時間の幅の 間は過去も未来もないということです。つまりその量子の軌道変化は記憶されるということですこれは分子が進化して有機物タンパク質など細胞レベルの過程は記憶されるということです。そうでないと分子生物学の複雑な工工程は説明できませせん。迷路でお話ししと下図のような迷路は量子では一瞬で突き抜けます.こうした過程をくぐりタンパク質や生命体構造を創造するのです。この部分は勝手な想像です。分子生物学を読むとあまりな何百の工程で分子ができてくるのを偶然とはとても思えません。DNる家庭Aからコドンがあつまってアミノ酸ができる過程はその遺伝子 がどのように組んでもつながりません、これは三個の遺伝子がそれ自体暗号の役目をしてアミノ酸を集めるのです、つまり情報です、こんなミクロの世界で情報が組み立てられるのはこうした 情報が必要とは考えられません、が事実なのです、この量子の記憶を保護するため核膜、細胞膜、などで不確定場がほごされています。ですから核膜は細胞に観測され、細胞はその周りの肉体に観測されていますつまり時間量がちがうのです。観測されるほうよりと観測するほうは時間量が違うのです。ちょっとややこしくなってきました。これ以上は不確定性理論の独自解釈を説明します その為には時間とは何か?から始めます 時間とは 時間と空間の関係 皆さん遠くへ行けば行くほど物が小さく見えるのは不思議だと考えたことはありませんか 当たり前すぎて何をゆうかとお思いでしょうか その説明までする必要はないでしょうが 簡単にいえば視野が拡がるから相対的にものが小さく見えるというのは経験則で本質論ではないのでは?と思います 遠くの物 例えば自動車が近くを走ればすごい速度で通り過ぎるけど遠方でみれば小さく見えますから自動車ものろのろ動いているようにみえます でもそれは我々がその距離感を知っているからでもし距離感も自動車の知識知らない立場から観測したら見比べて小さく見える自動車がゆっくり動いてると判断するでしょう なにをいいたいというと方位でも観測する方向は重なって一つの断面でみるということです そしてそれが絶対観測条件なのです 遠くの自動車のそばにゆけば車は時速60キロで走るのがわかりますがその間に距離が近くなります そのことを経験でわかっいるから不思議だと思わないのです 自動車の大きさを知っているから当たり前のように思いますがもし視野が拡がらないならどこまでも同じ大きさであるという理屈になります 目の前の鉛筆が一キロ離れても同じ長さに見えたとしても理屈の上からは不思議はない なにをいいたいというと 観測とはある一つの断面を通して見ることで同じ物体が小さくなると(見える)ゆっくり動く 大きくなればなるほど早く動く これは我々の観点の時間の進み方が絶対基準になつているからであります  これは変えられません これは逆にミクロの世界も同じです 見方によればミクロになればなるほど対象物は巨大化してゆくといえます そうなれば その動きは早くなります この事実をそう見えるだけと判断するのは経験則にすぎないのです 観測点の時間の流れが基準になるなら 方位も重なった方向は 遠いほど小さくなります なぜこんな当たり前のことをお話するのか?といえばこれは時間にも当てはまるのでは?と考えるからです    時間と方位の関数はグラフでもよくでてくるが 皆さん勘違いしやすいことがある それは現実には方位(距離)は行き来できるが時間はできないということである グラフでかけばそれは紙面上の客観性で 書 けるから勘違い するのであります 過去や未来へいけない 常にその時間上に観測者はいるのであって客観的に時間は見えないのです これは大事な事で解りやすくイメージすれは電車の中から線路をみているようなものです 窓の外の風景が後ろへ移動していく変化から時間を定義していますが当人は未来にも過去にもいけません今しかありません 時間は未来に向かって?進むわけですからそれは電車の進行方向をみているのに当たります 進行方向とは枕木が重なって見えるのが正解で線路をそとから眺めているようにイメージすると勘違い起こすのです というのが現代物理学の客観性の壁なのです 時間は積み重なってみえるものにイメージするのが正解なのです ですからこの概念で時間を再構築しなくてはいけません この考えでいきますと時間量という一瞬の観測量ともいうべき物理量が必要となるのです 枕木の長さは遠くても同じはずです つまり近くへゆけばつまりそのレベルから観れば同じ一瞬ではありますが観測位置から見れば遠いほど枕木は小さくなりこの遠いとはミクロへ行けば行くほど時間量は小さくなるということです それらの一瞬を同時に今の一瞬にするため時間を重ねて考えなくてはならないからです 時間が重なっているとはどうういう事なのでしょう それは観測とは何かということであり それは時間と空間の発祥の極小値 プランク時間とプランク長の不確定原理までとばなくてはなりません  時間量とは何か 時間を説明するには時間量とは何か?の説明が必要です この時間量を究極の最小値まで行き着けばそれはプランク定数の不確定原理まで行きます とりあえずこの不確定原理のお話は後にしてこの時間量からはじめます 時間量とはこの例で言えば枕木にあたります この枕木の長さが不確定場の一瞬にあたりこれを時間量となずけます ???不確定場 一瞬 ??なんのこっちゃとなりますがあまり厳格に説明すると肩がこりますので できるだけわかり易くイメージしやすい お話でいきたいと思います 不確定場とは物理でいう場の拡がりのみではなく時間の不確定もいれ 後から説明するML^2=Tの不確定を時間量と名づけTで表す ここで注意してほしいのはあくまでこの概念は不確定性原理の誤差の範囲でこれからでてくるT M L はΔt  Δ」m ΔLの量子的重ね合わせのことです この説明はよくわからないでしょうが後ほど不確定性原理でします といいながらまずこの基本的方向性を大上段からお話しておかなくてはいけません ここだけは最初から理解できなくても当然のところですが骨の部分ですから書いておきます。この時間量はプランク定数を係数にもちますがこの場合は無視します。一瞬の時間誤差のことですが小さい時間誤差は内在していますからこの時間量はその成り立ちの記憶を持っています、時間量が大きくなるとそのものが生命に進化してゆくことになり感覚、意識っへと成長します。大事なことはこの一瞬の積み重ねが意識まで進化してゆくことです。つまり時間量そのものが生命なのです。大きな時間不確定を作ることが生命を創造することになるのです。したがって時間量の波動でこの世界宇宙は創造されているわけです 時間量とは何か 時間を説明するには時間量とは何か?の説明が必要です この時間量を究極の最小値まで行き着けばそれはプランク定数の不確定原理まで行きます とりあえずこの不確定原理のお話は後にしてこの時間量からはじめます 時間量とはこの例で言えば枕木にあたります この枕木の長さが不確定場の一瞬にあたりこれを時間量となずけます ???不確定場 一瞬 ??なんのこっちゃとなりますがあまり厳格に説明すると肩がこりますので できるだけわかり易くイメージしやすい お話でいきたいと思います 不確定場とは物理でいう場の拡がりのみではなく時間の不確定もいれ 後から説明するML^2=Tの不確定を時間量と名づけTで表す ここで注意してほしいのはあくまでこの概念は不確定性原理の誤差の範囲でこれからでてくるT M L はΔt  Δ」m ΔLの量子的重ね合わせのことです この説明はよくわからないでしょうが後ほど不確定性原理でします といいながらまずこの基本的方向性を大上段からお話しておかなくてはいけません ここだけは最初から理解できなくても当然のところですが骨の部分ですから書いておきます 時間とは何か それでは一般にいう時間とは何か それは時間量の勾配のことで  この勾配は一瞬の場の拡がりと時間量の増大との関係で ここにおいて矢印の Tn/Tf が時間を表している 例えば0.003秒は3/1000秒ですから1秒を1000Tの時間量 観測する対象の時間量を3T とすると対象物の時間量が一秒の時間量1000Tのなかにいくつ含まれるか?その逆数のことですから1000/3の逆数0.003秒が時間となります 本質的にいえばこの世界は最小の時間量の点滅のみで成り立ちその時間量が量子的に重なって今を作り出して行く そのレベルは同時でありそれゆえレベルにより量子 質量 物質タンパク質  細胞 生物 (感覚である )意識 が創りだされる   宇宙のような巨大さは今の連続で過去も今に観測されるものでそれを空間という      今論においては今にしか世界はありません 過去や未来はありません 過去とは一瞬の不確定の拡大方向に内在され今とその過去が一瞬に内在して不確定の時間量の中にある方向 私から見れば光の飛んで言った宇宙方向でありますが あくまで私の今から見たらそのような方向に見えるというだけでありそれが私の見える宇宙なのです 今論の根本思想 この世界は、”今”の一瞬の統合体により成り立っている すべての現象は観測により成り立ち ”今”に収束しょうとしている しかし ”今”の一瞬が観測限界がありその誤差が不確定場であり 時間量として定義され この時間量は観測レベルにより決定され その同じ時間量の中ではその変化 動きはエネルギーの増加として表される 上位レベルから下位レベルへの観測が時間概念や空間間 質量などを現出させる 観測の最小限界は不確定性原理であり (その最小時間量をレベル1として置く) その次元式からMT^2の質的変化により時間量の飛躍(下位レベルから上位レベルへの上昇)が生じ(これを物質から生命へ進化と表現)生命が生まれ 感覚 意識が進化してこの世界が成りたっている。それにより、ML^2の時間量の質的変化が伴う これらのレベルは時間量の重ねあわせとなり”今”を形成する  上記の原理から生命とは何か宇宙とは何か この世界の成立がすべて説明できる  以上!  ごくろうさまです というわけでこれから一つ一つ説明したいと思います 今論序論 存在するとはなんだろうか  。数はどこまでも小さくできる。円周率でも に無限に小さく計算できる。つまり無限小という概念で現せる しかし、実在は違う 例えば、鉛筆で点を書けばそれはそれなりに範囲を持つ素材となり、どんなに小さくても、そのあとの存在を〜占める領域が必要である。つまり、限界小が、あるということである。 これを、これ以上観測不可能として、最小不確定性場と名付けよう 物理学では、電子等は、大きさを、もたない。存在として、説明される。。もうそれ以上分割できない。広がりという概念は不確定場に他ならない。この点の存在を観測した時、時間が流れる これは、意識ではなく、感じても同じである。感じる等は、その瞬間、時間が流れる 時間が発生する。何かが存在するということ 観測するということは、同時に、時間が流れる 二つに分割できない。時間それは、一瞬である。この一瞬は、感覚的な時間である。次に、この点を沢山重ねて上から見てみると、これは、やはり、点にしか見えない 点が10個重なれば10点という。シャレではないこの10とは点の密度というようなもの。になる。これは、質量のヒントがあるではないだろうか。今論では、この一瞬の重ねあわせがこの世界を、作り出していると考えている。一瞬の重ねあわせとは単なる波の重ねあわせとは違い、時間量の重ねあわせのことで、分割できない一瞬はどのレベルでも分割できない一瞬であり一瞬の感覚は同じである。しかし上位レベル(後ほど説明)の一瞬の中に下位レベルの一瞬が包括されている。1秒を上位レベルの一瞬とすると下位レベルが0.1秒が10回そこに包括されている。上図でいえば枕木を間近から遠くまで重ねたようなイメージでだんだん枕木が遠くほど小さく見える(枕木が大きいほど上位レベル) そのまま重ねたイメージです 枕木が遠くても実際は同じだというのは客観的にはそうですがそうは考えない 絶対基準は観測側にあると考えるのです 大事なことは、客観的時間の流れではなく、感覚的一瞬にこそあるということである。、分割できない。一種の重ねあわせ、このアイディアでこの不思議な生命現象を説明できる、可能性が今論である。 上の説明からわかるように何かを観測した瞬間時間が発生する 存在すると時間は裏表なのですAのように小さな丸を認識するのにはその周りに余白が必要です つまり場の拡がりです 上の例では余白がドーナツ自身にあたるわけでつまり自分自身になります そう考えるとその余白とは場ですから拡大解釈すれば空間にあたります あれ!そうすると空間とは自分自身ということになります 厳密には場と空間とはちがいますがイメージですそして子の時間量はたくさん重なって場から空間になる つまり生物レベルになる かつその痕跡つまり過去の記憶をもつ ここのとこりがミソである 待て記憶は脳みそが持つなんていわないでほしい 生命の機能をこの現象で説明するための理論だから 時間量はとても大事な概念であるもしなければ今論は終わりである そうなれば新しい概念量を想定しなくてはならない しかし宇宙生命を何かたくさんのパラメーターを 要求するのはおかしいこの原理はオッカムの法則とよbはれる(オカッムの剃刀もっと単純な解決策があれば複雑なほうを選ぶべきではない) 時間量を説明するため不確定原理から始めたい      

存在のイメージ

ここにに白い紙とその中に丸が書いてあるとする この丸認識されるのはその周りの余白があるからだ だがそれだけでは足らない それを上から眺める視線が必要だ 2次元の紙面の中ではその丸はたんに線にしかみえない それですべてだろうか?もう一つ大事な要素がいる それは時間の流れである 時間がなくては存在そのものがありえないからである なにを当たり前のことを話しているのか?それではこれらの要素で自己完結する理論はないのであろうか

とりあえず次のようなイメージを考えてみよう

下図のグラフを自己完結にするにはどうしたらいいだろう?






  

自己完結とはこの二つの丸を一つの存在にしてしまうことである 

シンプルな立体ですとこんなのがそうですね 






  


ドーナツ型かな これなら外の円と中の円は一つで完結しています この底の小さい穴が丸ですからこれが存在物に当たります そして周りの余白がぐるりとドーナツ型に覆いかぶさって上から目線でその丸を認識しているイメージです つまり余白とは認識側にあるということです 余白とは自分自身だということです ただ禅問答とは思わないでください 一つのイメージだということですところで









時間次元はどこにある 私はこれだけで時間次元も説明できると考えています それには少々物理量の解釈が変わります その為には時間とは何か?から始めます

時間とは

  時間と方位の関数はグラフでもよくでてくるが 皆さん勘違いしやすいことがある それは現実には方位は行き来できるが時間はできないということである グラフでかけばそれは紙面上の客観性でかけるから勘違いするのであります 過去や未来へいけない 常にその時間上に観測者はいるのであって客観的に時間は見えないのです これは大事な事で解りやすくイメージすれは電車の中から線路をみているようなものです ですから時間方向は時間が重なって見えるのが正解で線路を

そとから眺めているようにイメージすると勘違い起こすのです というのが現代物理学の客観性の壁なのです 時間は積み重なってみえるものにイメージするのが正解なのです ですからこの概念で時間を再構築しなくてはいけません この考えでいきますと時間量という観測量ともいうべき物理量が必要となるのです 時間を重ねて考えなくてはならないからです 時間が重なっているとはどうういう事なのでしょう それは時間と空間の発祥の極小値 プランク時間とプランク長の不確定原理までとばなくてはなりませ

 

それでは一般にいう時間とは何か それは時間量の勾配のことで 

この勾配は一瞬の場の拡がりと時間量の増大との関係でつまり光の速度のことです 今論においては今にしか世界はありません 過去や未来はありません

過去とは一瞬の不確定の拡大方向に内在され今とその過去が一瞬に内在して不確定の時間量の中にある方向私から見れば光の飛んで言った宇宙方向でありますが

あくまで私の今から見たらそのような方向に見えるというだけでありそれが私の見える宇宙なのです

今論序論

存在するとはなんだろうか  。数はどこまでも小さくできる。円周率でも に無限に小さく計算できる。つまり無限小という概念で現せる しかし、実在は違う 例えば、鉛筆で点を書けばそれはそれなりに範囲を持つ素材となり、どんなに小さくても、そのあとの存在を〜占める領域が必要である。つまり、限界少が、あるということである。物理学では、電子等は、大きさを、もたない。存在として、説明される。もうそれ以上分割できない しかし大きさをもたなくても実在している それは波動として存在している 観測すると量子として振舞う とにかく最小限度の存在である 本質的な存在とは? このテーマを追求した結果こういう考えになりました 

存在のイメージ

ここにに白い紙とその中に丸が書いてあるとする この丸認識されるのはその周りの余白があるからだ だがそれだけでは足らない それを上から眺める視線が必要だ 2次元の紙面の中ではその丸はたんに線にしかみえない それですべてだろうか?もう一つ大事な要素がいる それは時間の流れである 時間がなくては存在そのものがありえないからである なにを当たり前のことを話しているのか?それではこれらの要素で自己完結する理論はないのであろうか

とりあえず次のようなイメージを考えてみよう

下図を自己完結にするにはどうしたらいいだろう?

自己完結とはオッカムの法則と呼ばれるこのもっと単純な解決策があれば複雑なほうを選ぶべきではないという法則である

自然界もそうであるべきでパロメーターが多い現代理論はやはり無理があると考えるべきである すくなくとも少ないほうがいい と考えている

 A

自己完結とはこの二つの丸を一つの存在にしてしまうことである

中の丸は園周りの余白があればこそ存在を認識する ということは二つの次元があればこの中」の丸が認識できるか?そうではない この二つを外から眺める点が必要だ まあこれは三次元ですね ついでに時間が流れないとvしえませんね 時間は少し後で説明するとして

この図を自己完結させたい つまりこの外丸 中丸 矢印以外は存在しないとしたい それには外丸をお椀のように上にそらして下図のようにすると丸は外と内が一つになり開いた空洞が存在認識となる

 

シンプルな立体ですとこんなのがそうですね 

B  

今論の根本思想

この世界は、”今”の一瞬の統合体により成り立っている すべての現象は観測により成り立ち ”今”に収束しょうとしている しかし ”今”の一瞬が観測限界がありその誤差が不確定場であり 時間量として定義され この時間量は観測レベルにより決定され その同じ時間量の中ではその変化 動きはエネルギーの増加として表される 上位レベルから下位レベルへの観測が時間概念や空間間 質量などを現出させる 観測の最小限界は不確定性原理であり (その最小時間量をレベル1として置く) その次元式からMT^2の質的変化により時間量の飛躍(下位レベルから上位レベルへの上昇)が生じ(これを物質から生命へ進化と表現)生命が生まれ 感覚 意識が進化してこの世界が成りたっている。それにより、ML^2の時間量の質的変化が伴う これらのレベルは時間量の重ねあわせとなり”今”を形成する 

上記の原理から生命とは何か宇宙とは何か この世界の成立がすべて説明できる  以上!  ごくろうさまです

というわけでこれから一つ一つ説明したいと思います